「神楽坂龍公亭 思い出」 エッセイ 110626

橘川雄一|2011.1
昭和天皇崩御の報がされた頃、私はそれまで勤務していた前川國男建築事務所を辞し、自分で事務所を始める事とした。銀行の神楽坂支店に勤務していた年来の友人に相談したら、「こちらにいらっしゃいよ」と誘われ、神楽坂近辺に事務所を設け、(株)アルパートナーズ建築設計なる組織を立ち上げた。
 世は80年代最後の"バブル景気"真っ最中、銀行には開発案件の情報が多く集まり、提案作業の協力を求められていた。その中に龍公亭ビルの提案も含まれていた。当時担当であった銀行の方と一緒に龍公亭に伺った。やけにお綺麗なご婦人が立っていた。「ご注文は、」と言われ、あっ、この方がご主人(女将)なのだとそのとき知った。またお父さまの公栄さんがご存命で、お店のレジの前にいつも端然と座っておられた。その後私は桂春麺などを食しによく通った。
 その頃知ったことだが、龍公亭のお客さまに払方町に住まわれる東京教育大学名誉教授の穂積重行先生がおられた。私は大学時代から"法律の世界での穂積家"の存在が有名であることはよく知っていた。実はその穂積先生のお宅を設計する機会をいただいていた。初めて穂積先生のお宅を訪問した時、この様な方のお宅を設計できる誇りのようなものを強く感じたことをよく覚えている。日本の法律の元祖"穂積陳重"を2代前に持ち、そしてさらに先生の血に渋沢栄一、司馬遼太郎の著書によく出てくる「日本陸軍最高の秀才」とうたわれた児玉源太郎が加わっているという日本の名門中の名門の方だが、ご当人は知的なジョークを愛する血の重さを感じさせない方であり、またさらに龍公亭を愛する方でもあった。
私は幸いにもこの様な方々とのめぐり合いの中で神楽坂時代を過ごすことが出来た。

 06年夏に女将・公子さんから龍公亭ビル改築のご相談があった。ご長男竜一さんが思い描くお店をやりたいと言うことと、上階は東京理科大学が借りる可能性があるのでその交渉もして欲しいという内容だった。"さすがだな"と思った。彼女の顔の広さはなかなかのもの、私もそうだが彼女のファンは多く、その中に理科大の要職に就かれている方もいてその方の推薦のようだった。
竜一さんはすでに神宮前で、カフェ形式のお店と広東料理老舗龍公亭とのコラボレーションを、義兄山本宇一さんの許で経験しており、新しいものへのチャレンジ精神は旺盛であった。私もそのコラボ料理を食しに伺ったが、これが"食文化の最前線"かと妙に感心したことを覚えている。

 新龍公亭ビル設計打ち合わせも神宮前のそのお店でよく行った。ビルデザインのコンセプトは"龍公亭のフロントを大事にする"、というものだった。神楽坂に建つ通常の建物は、(神楽坂に建つ他のビルを見ていただければ分かると思うが)エレベータ・階段は通りに面したところにある。実際に使う店舗部分を矩形にするためであるが、これに対して山本宇一さんはエレベータ・階段を奥に設け、お店のフロントはすべて龍公亭で使うことの要望をされた。いくつかのプラン(平面計画)の検討後、現在あるように脇に1.5mの通路を設け、ご要望に即した案で纏めた。
 店舗を具体的にデザインする側と、ビルデザインの建築設計側とで空間に対するものの考え方はずいぶん違うなとそのとき感じた。
 建物の確認申請を提出する時期に、いわゆる"耐震偽装"事件に関わる建築基準法の改正時期とぶつかった。その事務取り扱いが後に"官製不況"と野党側に批判されるほど手間の掛かる作業となり、施主側には心配をかけてしまったが、何とか工程通りには進められた。建設工事もそのような状況下で、施工を担当された内野建設の努力で契約工程どおりで08年4月に引き渡すことが出来た。その後山本宇一さんの手で龍公亭の店舗工事が行われ、6月にオープンされ現在に至っている。
 竣工後かの地に建つ"新龍公亭ビル"は神楽坂と言う歴史の中で"凛"として存在しているという感じを持つと同時に、設計に関わった人間として龍公亭が公子さんから竜一さんへと連綿と歴史を繋いでおられる姿を見ることが出来るのは大変な幸せだと思っている。
 今でも私は建築家としてこの建物で"出来たこと、出来なかったこと"をいろいろあり、それらの事々を頭の中でめぐらせながら、竜一さんが作る料理を味わい深くいただいている。