日本建築家協会 寄稿文 「前川國男事務所時代(1974~1988)」

橘川 雄一|2011.8
特集 前川國男とその組織
1975年からの前川國男
橘川 雄一
きっかわ ゆういち
アル・パートナーズ建築設計
関東甲信越支部・東京都

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 私のジェネレーション
 私は、前川國男建築設計事務所に、昭和50年に入所。昭和61年前川先生が亡くなられた後、ギャラリー間での追悼展を担当させてもらい、その中で前川先生の業績を振り返る事ができた事で、私としてはえらく満足した気分になったので、昭和63年自立の道を選ぶこととした。今回執筆される方の中では最もおそいジェネレーションになろう。


 面接
 当時、新進気鋭のO氏が、私の面接に立ち会っていた。前川先生が語る。コルビュジエの両親の別荘の塀のデザインをしている時、ごく普通の、単に人の出入りする穴の開いただけの塀の立面を描いていたそうな。コルビュジエに「これで本当に良いのか」、「それで良い」。ある時、コルビュジエが来て「そうだ、あそこの家には犬がいる。犬のための小さな穴を開けてくれ」。若き前川先生が小さな穴を人の出入り口の脇に空けたら、コルは満足して「これで良い」と言った。そこまで語って、前川先生は「コルビュジエのことラショナリスト(合理主義者)と言うけれど、最近怪しいんじゃないかと思っているんだ。」間髪を入れず、 O氏は以下のように切り返した。「それがラショナリズムそのものなんではないか。形を作るとき一つ一つに理屈を付けなくてはならないと考える事、それがラショナリズムなんだと思う。」面接を受けている我々をそっちのけで話している。前川事務所のギロン好きの序の口を見ることとなった。


 前川事務所のアーカイブ
 ミドビル(前川事務所のビル)地下に、6畳間程度の広さの部屋がある。そこに仕事単位で番号のふられた図面が、紙筒に巻かれてしまわれている。ある時、前川自邸(現・小金井公園に移築)の図面を出して、その墨入れされた手書き図面の綺麗さに見ほれた。前川自邸は骨太であり、且つ空間のダイナミズムにあふれた名品だと思っていたので、当時の前川事務所の雰囲気(気迫)を知るためにはいい手立てだった。
 ギャラリー間で追悼展を開いた折、この図面(原図)は出そうと思った。崎谷小三郎さんという大先輩が図面を描かれていたと云うことで、もう引退しておられたが、事務所に来てもらった。彼は「これは僕一人で描いたんだ。先生も横から見ていて、何も言わないんだ。」と語った。この言葉の解釈は、先生は何もしなかったという意ではなく、総ての所員の指の先、頭の隅々にまで前川ismが浸透していたんだとの理解が正しいのだろう。


 弘前市緑の相談所
 平面図をスタディしていた。先生が横に来られる。所員は当然の如く立つ。先生が椅子に座り、私のスタディをじっと見る。色々質問を受ける。「この部屋は何」「弘前城址公園樹木のメインテナンスをするおじさんおばさんの休憩スペースと、こちらは着替え場所と浴室です。」「このお湯はどこから来るの」「ここに湯沸かし器があってこう辿って来ます。」「このルートはやけに長いな」「でも...」前川先生はロールトレペをのばして鉛筆で部屋のレイアウトを直す。私はじっと横で立っている。お昼時間は先生には関係ない。そのままじっと考えておられる。いつも大抵2時間位は横に立っていた記憶がある。
 先生ににらまれると、毎日来られる。そしてじっと考えておられる。
 先生曰く「いつも、忙しい忙しいという建築家がいるけれど、一体いつ建築を考えているんだろうね。」


 石橋をたたいて渡る
 前川國男のことを私の先輩は「石橋をたたいて渡る」ほど慎重な人だ、といった。前川先生は、勿論優柔不断な人ではない。彼曰く「それは、前川國男ほどの聡明かつ決断力に富んだ建築家が、石橋をたたかなければならないほどに、社会あるいは技術の未開の領域へ挑戦し続けていた、と解釈すべき」と言った。
 前川國男は社会で常にそういう存在であり続けた人であったと、私は理解している。